師が伝えたこと

 2009年の初メッセージになります。
年明けから様々な出来事が重なり、少し遅くなってしまいました。
すでに新しい塾生を迎え、新年度が稼働しつつあります。
2008年度の塾生の方々の入試も終わり、結果が概ね出そろいました。今年度も非常に良い結果が出てくれたと思います。
毎年のことながら、塾生の最終局面での頑張りと仕上がりには頭が下がる思いです。
我々スタッフも、少しでも彼らのインパクトに残るようなアドバイスができるように心掛けてはいますが、年々、卒塾生が塾に来た時、コムニタスで学んだことが大学院に入ってからわかってきた、と言ってくれることが増え、そんな時は素直にうれしい思いになります。
もし、コムニタスで学んだことが、彼らにとって良いものであり、それが次の世代に引き継いでいってもらえるなら、それは我々にとって最大級の讃辞をいただいたように思えます。
塾生と常にそのような関係を築いていくことが、私たちのような塾の財産になるのだと思います。

 そんな思いを抱きながら、今回は少し個人的なことが中心になるのですが、私の大学院時代の指導教授についてのことを書きます。
その先生は、昨年の11月くらいから具合が悪くなり、年が明けてからお亡くなりになりました。
まだ70代だったこともあってか、あまりにも早く往かれてしまったという感が強く、今だに実感がわいていないというのが正直なところです。
あまり淋しいだのつらいだのと言うと先生に叱られてしまいそうですので、ここでは少し冷静に、先生が私に対して言葉だけではなく、態度や姿勢でも伝えたことを回顧したいと思います。

 その先生には、私が修士課程に入った時から博士課程の一回生までの三年間大学院でお世話になりました。
常に寡黙で、笑顔もなく、いつも眉間に皺がよっているイメージが強く残っています。
また学問に対して大変厳しい方で、私も修士の時は、言葉が軽い、資料の読みが甘い、とよく言われました。
ただ、今にして思えば、その言葉をあまり正確には理解できていなかったかもしれません。
 定年の年、先生はある辞典の編纂総責任者になられ、辞典全体を概説する文章を書かれました。
原稿の打ち込みを私がしていたこともあったのですが、なぜか、先生が原稿を書いているその傍にいなさいと言われることがよくありました。
先生の仕事を目の前で見たのはその時が最初で最後だったのですが、どこを取っても極めて緻密な仕事をされる姿を目の当たりにし、プロの仕事とはこういうものか、ということと、自分の未熟さを本当の意味で知った初めての時でもありました。

 
そんな先生が私の携帯電話に直接連絡をくださったことが二度だけあります。(あとは何か用事があっても必ず奥様が電話をくださいます)
一度目は、私が修士論文を出した後、博士課程に進むかどうか迷っており、願書提出締め切り間際になっても決められずにいたとき、突然先生から電話が入り、「まだ願書が来てないけど、博士課程に行くのですか?」と言われ、私がまだ迷っているという旨をお伝えすると、「行くつもりなのですね?」と続き、私がなお曖昧に返事をしてしまうと、「とにかく行くのですね?」とだけ言われて電話を切られました。
この言葉をどう理解するかは、いろいろあると思うのですが、ともかく私はこの瞬間に様々な決意をして、結果、今に至ったことだけは間違いありません。
 次に先生が電話をくださったのは、定年に際して、研究室の書籍を整理して、最後研究室を出られる直前でした。
学者が最後研究室を出る姿なんて滅多に見られないから見に来なさい」と言われ、私は走って研究室に行きました。
先生が研究室を出て、最後一礼をされたその姿を見ただけで、私は何も言葉が出ず、「お疲れ様でした」や「ご苦労様でした」など間違っても口から出ないように気をつけていたことだけはよく記憶しています。
 このように具体的な言葉はあまりなかったのですが、ともすれば、指導教授と学生という関係で普通はそうはないのではないかと思えるような出来事がたくさんあったようにも思えます。
何か強い言葉を言われたというわけではなく、常に行動と態度と背中で語っておられたと思いますし、私もできるだけそのメッセージを受け取り、心に刻めるようにしてきたつもりです。

 先生が定年退職されてからも、年に一度はお会いする機会を設け、僅かながら交流はもっておりました。
その際にはいつも先生に、本を書いてくださいよ、といったような話をしており、先生も年々少しずつ進展する成果を披露してくださいました。
そして2006年の年末くらいからついに出版の計画が立ち上がりました。
幸い、私も原稿の入力や参考文献探し、原稿チェックなどで、この仕事に関わることができました。
しかし、それは想像以上に膨大な文量を要する計画でした。
まず驚いたのは、たいていの研究者がこのような本を出す場合というのは、これまで自分が積み重ねてきた論文を、うまくつなぎ合わせて出すという場合が多いのですが、先生はそれらの論文を一切使わず、すべて書き下ろしでいくと言われます。
理由は様々あったと推察されますが、ともあれ本は二冊分冊で、合計1500から2000ページ分程度が予定されていました。
しかし、結果として、半分の一冊の原稿が仕上がったところで、筆が止まってしまいました。

 これは大変残念なことだと、当初私は思っていました。
先生ご自身も、なんとか生きているうちにこの仕事には決着をつけたい、とよく仰っていたこともあり、焦燥感がありました。
もっと早く仕事が完成する方法があったのではないか、と。
しかし、時間がたってよく考えてみると、おそらく先生はそのような仕事は間違ってもされる方ではなかった、という結論に至りました。あくまで自分への慰めかもしれませんが。

 先日、先生のお宅に伺いました。
そこには書きかけの原稿や資料などが、そのままの状態で残されていました。
私が触るのが少々憚られたのですが、奥様の許可を得て、少し拝見させていただくと、先生の読まれた膨大な資料が出てきました。
「読む」といっても、一つの資料に対し、翻訳+要約、著書で使う箇所のチェック+訳し直し、といった具合に驚く程丁寧に資料が処理されていたのです。
先生が予定されていた二冊の内、原稿の仕上がった方は「資料編」にする予定でした。
そこでは百点程の資料が紹介されているのですが、実際には四百点ほどの資料を読まれ、ノートを作られていたことがわかりました。
一見すると、我々にはあまり重要には思えなかった資料も、先生は丁寧に読み、実は重要な情報が物語られているということも突き止めておられたようでした。
そのノート類だけでも十分な学術的価値があると言って過言ではないものばかりでした。

 生前、先生のお宅に原稿について打ち合わせに伺ったとき、先生が出された資料の(今にして思えば)ごく一部を見て驚いている私に対して、先生はこの資料処理を「若い研究者たちが、最低限して欲しい仕事」と何度か言っておられました。
そういえば、定年前、先生の研究室の整理をする際、膨大な資料の山を指さして、あれを全部読むのが定年後の楽しみ、と(ほぼ初めて見た)笑顔で話されていたことが、今も強く印象に残っています。
当時、院生の私にしてみれば、「そういう目標かな」と、心の中でささやいていたくらいの量でした。
しかし先生はほぼ全部読破した上で、一つずつノートを作り、内容を要約までされていたのです。
定年後10年近くかけて、コツコツ積み上げておられたのです。

 私たちの世代は、現在のパソコンやインターネットなどの情報技術の恩恵を受けること甚だしく、うまく利用すると、本来はかなりの情報が処理できるはずですが、どちらかというと、利便性だけを重視してパソコンを使っていることは否定できません。
今の時代、論文は「質よりも量」といった風潮も暗黙の了解的に存在します。
もちろん本来は質、量とも兼ね備えることが必要なのですが、やはり一年に一本も論文を書かない「勇気」は、実は私にもありません。
目先の論文を書くことだけにとらわれて、本来の研究の在り方をわかっているつもりでも忘れつつあるのかもしれません。
先生はこの点について、いつも私たち若い研究者に警鐘をならされていました。
常にアンテナをはり、常に丁寧に資料を読み、その資料が一体何を物語っているのかを考え、ノートを作り、その積み重ねが論文になっていくのであり、丁寧な仕事をすることを忘れてはいけない、あせってはいけない、と。

 先生の仕事はまさにその言葉を実践したものであったと思いました。
入院中何度かお見舞いに行かせていただきましたが、亡くなる直前はあまり話すこともできなくなっていました。
しかし、私の顔を見ると、「先生」の顔になり、いつも私に何かを伝えようとされているようでした。
私もあまり言葉を発することなく、ただ十数分そばに座るだけの時間でしたが、いくらかの言葉にならざるメッセージは受けとったつもりです。
上で記したように、先生は現役時代から元々言葉数は多くはなく(笑顔も)、態度と文章で私たちに語りかけることが多かったと思いますが、最後まで教師として、そのような在り方で接していただけたことを心に刻み込んだつもりです。
私自身が生徒に対して同じようにできるかと言えば、現時点では難しいと思います。
それほどメッセージ性の強い背中を私は持ち得ていないと思います。
しかし、いつかは・・・・という思いもあります。

 以上、先生が現役の時から、定年後、亡くなる前、そして亡くなってからもなお、くださったメッセージについて記してみました。
ちょっと抽象的でわかりにくくなったかもしれませんが、そういう関係を私なりに精一杯言葉にしてみました。
私が、先生のように言葉だけではなく、態度や行動で相手に伝わるように(この世を去ってもなお)語れるようになるには、もっと年月も必要だと思いますが、私には幸いにして手本となる師がいてくださったことを今更ながら強く感じています。
先生に対して単純にありがとうございました、と言うことも悪くはないと思いますが、それだけではなく、私が先生から受けとった様々な形のメッセージを、これからは私が正確に伝えていく側になっていくことが、先生への御礼のメッセージになればと思っております。