今年の1月1日、京都コムニタス開塾以来、初めて塾に行かずに完全に休みました。
そこで、久々に本を一冊自宅の机に向かって読みました。
書名は水月昭道著『高学歴ワーキングプア「フリーター生産工場としての大学院」』(光文社新書)で、近頃、東大生が最も読んでいる本として注目されていたものです。
私たちにとって、何とも挑戦的な題目ではありませんか。そんなことを考えながら年末に書店で手にとりました。
著者の略歴を見ると、京都の龍谷大学中退の後、最終的には九州大学の大学院博士課程を修了されています。
しかも本願寺派の僧侶でもあられるということで、京都にご縁があることにも親近感がわきました。
当塾から、龍谷大学にはたくさんの塾生が入っておりますので。
実際読んでみると、博士号取得者がいかに就職に困っているかが、非常に具体的かつ切実に述べられていました。
研究者になるという夢をもって大学院に行って、博士号まで取得したのに、パチプロで生計をたてている、等々様々な苦労話が満載になっています。
概ね通底する要旨は、日本の大学院拡充政策による院生増加に対して、その受け皿が全く用意されておらず、その結果、博士フリーターという、「優秀な」人材を生み出しては、無駄に浪費してしまう現象が発生しているということでした。
これを見て、なるほどと思わされる点もあります。
まず国立大学の法人化以来、この数年で博士号が急激に乱発されるようになったということ。
私もその一人ですので他人事ではないかもしれません。
次に博士号を取得しても大学教員になることが保証されないこと。
おそらく、旧帝国大学を出る以外に教授への道が開かれているとは言えず、また旧帝国大学を出ても道が開かれているとは言えない。これがこの業界の一般的事実でしょう
。
実際私の知る博士たちも大半(ほぼ全員)が未就職者です。
しかし、違和感もあります。
まず博士号を取得したからといって、全員が優秀な人材とは限りません。
もちろん多くはそれなりに優秀なのだとは思いますが、博士号は優秀な人物であることの証明書ではありません。
現在のいわゆる課程博士(甲類博士、PH.D.、学術博士、いろいろな言い方があります)は研究、教育ができることに対する免許証と言えます。
免許証があるから車の運転が上手とは言えないことくらいは誰でもわかります。
またベテランでも車庫入れさえできない人はいます。
私が大学院に入ったころ、就職氷河期と言われていました(常に言われていますが)。
それでもその当時、大学院に行くというのは一種の変わり者、あるいはモラトリアムといった感じで受けとられていたように思います。
また当時の私自身(私だけに限っていないと思いますが)も自分の将来へのビジョンが明確であったとは思いません。
実際、入試の面接で(10秒くらいで終わったのですが・・)部屋を退出する際に「大学院出ても就職ないけどいいの?」と聞かれ、「それくらい自分でなんとかします」と答えた記憶があります。
まだ20代前半でしたので、仕事をすることが何であるかも知らない分際でえらそうなことを言ったものだと、今は思いますが、そんな右も左もわからないころの私が求めていたのは漠然とした「力」でした。
中学生のころ、22歳の新任の先生が担任になりました。
その先生は私を捕まえて、「俺はまだ何も知らんから、おまえが助けてくれな」と言います。
私は「何もしらんのに何で先生になったの?」と聞き返し、少し険悪になったことがあるのですが、今考えても、この複雑な現代において、大学卒業したての22歳で何十人もの人生の一幕に入らねばならないのは、非常に乱暴な話だと思います。
本当は学校の先生も大学院修了、あるいは数年の研修期間を経てから現場に出るくらいの猶予が必要だと個人的には思います。
法曹や医師は、試験合格後、それなりの研修期間を経て、さらなる教養を積んでいます。
かつてはそのような職業を「ノーブレスオブリージュ」と呼んでいました。
この言葉が必ずしも良いとは思いませんが、少なくともこのような職業人は、高い地位と引き替えに、私的な欲求を出さず、公の利益のために義務と責任をおったとされます。
今でいうプロフェッショナルだと思います。
プロフェッショナルの本義は、「高等教育」を根拠とした専門的職業人であるとされます。
医療はその「プロフェッション」の王様と言われ、大学教員、法律家などもその類に入ると考えられます。
一見してわかる通り、これらの職業は誰でもなれるわけではありません。
様々なハードルを越え、食べていけない時期も越え、それにたえて生き残った者が自他ともに認めるプロフェッショナルとなるのです。
ましてやその職業の枠に入れたとしても、成功する者とそうでない者に分かれるのです。
そのプロフェッショナルになることを夢見て、願って、それぞれの世界に飛び込み、自らを磨き、生き残るために人生の多くを捧げる人々に私は大きな敬意を払います。
私が院生の時、研究室の整理をした際のことですが、我々の世代よりもはるかに上の世代、大学の先生の世代の人々のものと思われる書類がたくさん出てきました。
どれも今なお使用可能なすばらしい生きた情報が書いてあるのです。
これほどの成果を残しているなら、今ごろどこかの教授としておられるに違いないし、その方々に返そうと思って方々調べて連絡を取ったのですが、どの人も今は研究から身を引いており、書類は私たち後輩のために残したものだと言うのです。
中には志半ばにして早逝された方もいました。
その時思ったのは、大学の研究室とは多くの人の夢や人生を糧にして吸収しているのだと。
また、大学の世界に限らず、プロフェッショナルの世界とは、力がありながらも(あるいは力がなくとも)、目標に届かなかった人々の夢の跡の堆積なのだということです。
それぞれの人は万感の思いがあるでしょう。言葉にならない無念もあるでしょう。
それでもなお後進を思い、自らが歩いた道筋を残す。
このような人々も私は尊敬します。
自らが望んだ道を行くために、ある意味では一握りの成功者になることを目標に、またある意味ではただ純粋に好きなこと(研究にせよ、音楽やスポーツにせよ)をやっていくことを望み、人はプロフェッショナルを目指します。
そこに多大な労苦が伴うのは当然のことであり、その覚悟が必要なのだと思います。
目標に届かない理由は数えきれない程たくさんあります。
生活に窮したから、家庭を持ったから、家を継がねばならないから、身体を壊したから、等々。
「堆積」の中身は濃く、簡単に言い表せません。
ただ、今、あるいはこれからこの堆積に立つものとして、私が最も重要と考えるのは、自分自身の抽象的な「力」です(塾生にはいつももっともっと具体的にしろと言っているのに・・)。
少し過激な表現ですが、目標に届かないということは、良くも悪くも力がない、ということです。
それ以上でもそれ以下でもないのです。
「あいつは運が良いから」「あいつは先生に取り入ってずるいことをしたから」、あるいは「あいつが邪魔をしたから、自分は届かなかった」「あの先生に巻き込まれて、自分は大学院に行くハメになった」。
こんな声を私はたくさん耳にしました。
しかし、「他人のせい」で自分は届かなかったということはプロフェッショナルの世界ではあり得ないと私は考えています(いかなる場合であっても人のせいにすることは好みませんが・・)。
以前、ボクシングの世界戦で「疑惑の判定」などとされ、チャンピオンになった日本人選手が随分たたかれました。
しかし、私が思うに、たたかれるのはしょうがないことにせよ、やはりチャンピオンに届いたのは力があったのだと思います。
私がファンだったある名ボクサーは5回も世界戦に挑みました。
しかし、一度も届きませんでした。
5回もやれば、あと一歩も何度かありました。でも届かないのです。
それでも彼は一度も他人のせいにせず、最後まであきらめず、様々な苦労をしながら、ボロボロになった身体に鞭をうち、自分を磨き続け、引退しました。
どちらが正しい生き方かは私には評価などできません。
どちらも精一杯挑んだのだと思います。
届く、届かないの差は、やはり抽象的な「力」なのだと私は考えるのです。
もちろんチャンピオンだけが人生ではなく、その後の長い人生のために大きな力を蓄えることができたなら、またその力を今後の人生に生かすだけの知恵をつけることがこれからできるなら、その人の人生は非常に有益なものになると思います。
『高学歴ワーキングプア』でときには批判の対象となる大学専任教員も、どのような背景があるにせよ、力があるから今の地位があるのだと思います。
繰り返すようですが、大学教員だけがチャンピオンではありません。
博士号を取得して、別の世界に飛び込んで行く人は、コムニタス出身者にもいます。
どんな世界に入っても下積みがあるので、それを一から積み上げて、また新たな力を蓄えるのです。
だからといって、博士になるまでの人生が否定されるわけではありません。
要はそれを生かす方法や手段を獲得し、それを使う技量を身につけることです。
これを総称して「力」だというわけです。
人生をある程度長くやっていると、様々なことがあります。
私は、生まれた時から死ぬ瞬間まで、知識、経験、善・悪の行為、等々すべてが積み重ねだと考えています。
学問も当然積み重ねです。
仏教的には「業」と呼べそうですが、今、目に見えている結果は、すべて、我々が生きてきた行為の積み重ねが結実したものだということです。
回り道になるかもしれません。
あるいは他者よりも遅れるかもしれません。
また時には残酷な結末が待っているかもしれません。
それでもなお、強い意志を持って不安に立ち向かい、諦めずに目標を持ち続け、他人のせいにせず、自分の行為(業)に責任を持ち、自らを磨き続け、力を蓄え続けることで、目標(チャンピオン)が達成されることも多いにあり得ると思います。
最近では随分回り道をしてから大学教授になっている人もよく見ます。
決して厭世的にならず、この現代を常に前を向いて進んで行くことを、私は塾生やスタッフに伝えているつもりです。
これから大学院に進もうという方々は是非このような考え方を参考に、自らの道筋を少しずつ作っていただけたらと願います。