新年度に入り、京都コムニタスも新しい塾生を迎え、次の秋の入試を目指す体勢になりつつあります。
しかし、我々が常に怠ってはならないのは「反省」だと考えています。
ここでいう反省とは「猿でもできる」と言われる類のものとは異なります。
我々自身の一年を振り返り、問題点を導き出し、次の目標設定への糧にすることです。
幸いにして昨年度は塾在籍者ほぼ全員が合格することができました。
当塾ではこれは当然のことであり、ことさら宣伝文句にする必要はないと考えてはいますが、やはり反省点がないわけではありません。
塾もある程度年月がたってくると、ここかしこにマンネリ化してくる部分が生じます。
私はできる限りこのマンネリをなくすために、毎年必ず何か新しいことをします。
最近で言えば、事務所内の模様替え(これはスタッフが頑張りました。かなり整理整頓されました)や新しいコース(臨床心理士資格試験コース)を開設しました。
これはここ数年来あたためていたのですが、ついにスタートすることができました。
なんでもかんでも新しいものが良いというわけではありませんが、開塾以来何の変化もつけられていないものがあるのも良くありません。
「これはすばらしい。だからこれからもずっと残しておいて欲しい」と皆が思うものができて初めて「伝統」が芽吹き始めるのだと私は考えています。
コムニタスにもそろそろ「伝統」が欲しいと思っているのですが、なかなか難しいものです。
その意味ではまだまだ謙虚に試行錯誤しながら進んで行くことが必要なのだと思います。
「伝統」について、ある人が、人工的にある意図をもって作り上げていくものなのか、それとも人為的というよりも人間の営みの結果として自然発生的に生じていくものなのか、私は知り得ていません。
もちろん私が「これを伝統とする」と決めたとて、伝統ができるはずもありません。
でもだからといって長い年月だけが伝統をつくるなら、古ければ何でも伝統になってしまいます。
どうも伝統ができてくるには様々な条件や要素が必要なように思われます。
ある程度の年月、多くの人々の支持、周知率の高さ、このあたりは必須条件と言えるでしょう。
これに加えるものがあるとすれば、「新しいものの積み重ね」と「時代への適応」でしょうか。
以下、この二点について考えてみます。
まず「新しいものの積み重ね」ですが、例えば、「伝統の味」を挙げてみましょう。
京都には有名な老舗料亭がたくさんありますが、たいていは伝統の味があると思います。
しかし、その味が完全に「最初」と同じと言えるかと言われると、言い切るのは難しいと思います。
もちろん材料も少しずつ変わるでしょうし、まったく同じもの作る技術を世代ごとに引き継ぐことも難しいでしょう。
むしろできる限り客の目に見えない形で少しずつ変化を加えていると見た方が自然です。
逆から考えてみましょう。
コンビニ弁当は食品成分の分量が一定になっているので、もし味を半永久的に同じにするならば、意外に容易いかもしれません。
しかし、それを「伝統の味」と呼ぶ人はいないでしょう。
このように見てみると、伝統を形成するにはむしろ少しずつながらも「変化」という要素が必要なように思われます。
これは日本という国家で考えてみても、大学で考えてみても、「伝統ある」と言えるものには同じことが言えます。
大学は必ず教員や生徒という母体は定期的に入れ替わります。
そしてその大学の講座や専門性は、その時代に所属する教員の専門に依るところが大きく、時には学部や学科は再編されていきます。
東京大学であっても毎年のように何らかの新しい学科ができています。
そうすると、伝統の要素として必要なものは、「変化」に加えて「人」と言えます。
例えば日本で最も伝統あるとされる龍谷大学は370周年を迎えようとしていますが、もちろん教員や学生をはじめとする人資源や組織は常に変化しています。
しかし、重要文化財に指定されている建物は、明治初期に建造され、おそらく極めて変化が少なく、伝統の面影を最も残しているのでしょう。
このように伝統の形成には、「変化」と「人」と「変化の少ないもの」も必要と考えられ、むしろ伝統をこれから形成しようとする立場に立つのであるのなら、泰然自若と構えていることよりも積極的に新しいものを取り入れ、改良しつつ変化を求めていく方が妥当なのではないかと考えています。
次に「時代への適応」ですが、これに関しては、我々は自分たちに対してだけではなく、むしろ他者の方に目を向けるべき事柄だと言えます。
しかし、これは非常に難しい問題です。
時代に迎合しすぎると、自分を見失いますし、自己にこだわりすぎると時代に遅れます。
結局バランスが重要なのですが、特に他者の言葉によく耳を傾け、要望に的確に応えることを意識しておく必要があります。
「時代」は他者の言葉にこそよく反映されており、自己の殻に閉じこもり、情報を遮断してしまうと時代から離れていってしまいます。
大学院受験に目を向けてみると、やはり年々塾生の要望は少しずつ変化しています。
以前は大学院に行くのに予備校や塾に通うという風潮はありませんでした。
しかし、今は少子化の影響もあるかもしれませんが、大学の四年間だけでは、「何もしなかった」という思いだけが残り、やっと専門の学問がおもしろくなってきたら卒業だった、というようなことを実感する人も増え、大学院へ行って成功するための学校に行くという風潮が生まれてきました。
私たちの少し上の世代からいわゆる「ダブルスクール」という言葉はありましたが、当時はパソコンや情報処理の専門学校などが流行りだったと記憶します。
ここ数年前は「資格神話」があり「手に職」=「資格」という構図が一般的になり、現在もわずかながらその風潮が残っている感があります。
しかし、この傾向も時代とともに少しずつ変化しています。
今は資格取得だけではなく、その資格を生かす場が求められています。
ですから、資格取得後のスキルアップまでを考えた人が増加していると言えます。
大学の側も最近は受験生に要求する内容が変化しつつあります。
臨床心理士指定大学院を例にとると、以前は資格だけを求める学生はあまり好まれませんでしたが、今は資格試験に合格する人も求められています。
我々はそのような時代の流れに対して、常に敏感でありつづけ、最新かつ独自の情報を収集し、対応していかねばなりません。
最後に、伝統について本来最も重要なものは、やはり「人」です。
あらゆる伝統は人が作り、人が評価し、人が継承していくことは当然のことですが、人材の育成となると非常に難しいものです。
コムニタスの場合、スタッフや講師はコムニタス出身者が多いのですが、できる限り自分たちの理念を次の世代に紡いでいってくれることを期待しています。
しかし、これだけでは目線が内側に向きすぎているため、上記で考察したような「伝統」を形成していくには足りないかもしれません。
やはり外に目を向け、様々な知識や情報を塾生及びコムニタス全体にもたらしてくれるような人材が育つような環境も必要です。
また、コムニタスを出て大学院や大学に入った塾生が、今度は社会に出るときに支援できるようなシステム構築も必要です。
以上、「反省」を踏まえて数点の考察を加えましたが、伝統は、継承できるシステムが整っていて初めて機能すると考えられます。
コムニタスは全員合格だけを目標にするのではなく、さらにこのような能力のある塾の「伝統」を形成していくという目標を持って今年以降も進んでいくことを目指していきます。